昔の自分なら選ばなかった道を歩く回
退社の瞬間
ビルの重い扉を閉めると、夜の街が昨日と同じ顔で待っていた。
街灯の位置も、風の湿り気も、通り過ぎる人の足取りも、見覚えがある。
いつもなら、最短ルートで大通りへ出る。
一秒でも早くこのエリアを抜けて、
一秒でも早く「何も考えなくていい場所」に戻るために。
だが今日は、ふと、
街灯の届かない細い路地が気になった。
長年通い慣れたオフィス街。
その毛細血管のような路地の先に、何があるのか。
考えたことすらなかった。
歩き始める
昔の自分なら、迷わず大通りを選んでいただろう。
効率的であること。
無駄を省くこと。
不測の事態を避けること。
それが正しい生き方だと、疑いもしなかった。
あえて暗い方へ。
あえて狭い方へ。
革靴がアスファルトを叩く音が、
壁に反射して、いつもより近くに聞こえる。
数十メートル進んだだけで、
知っているはずの街が、
見知らぬ誰かの内臓のように生々しく、よそよそしくなった。
考えが勝手に浮かぶ
「なぜ、こんなところを歩いているんだろう」
そんな自問が浮かぶが、すぐに消える。
理由なんて、なくていい。
ただ、
昨日までの自分が選び続けてきた
無数の「正解」から、
少しだけはみ出してみたかっただけだ。
路地裏の古い家から、
かすかにカレーの匂いが漂ってくる。
どこかの換気扇が、
湿った音を立てて回っている。
ここには、
私の仕事の成果も、
人生のランクも、
将来の不安も届かない。
一歩踏み出すごとに、
自分という存在が街の隙間に溶け出していくような、
奇妙な身軽さがあった。
冒険というには、あまりに矮小で。
散歩というには、少しだけ心細い。
答えを出さずに終わる
五分も歩けば、結局、
元の知っている道へと戻ってしまった。
世界は繋がっていて、
私はまた、いつもの日常の縁に立たされている。
数メートルの逸脱は、
私の人生に、何の影響も与えなかった。
景色は再び無機質になり、
私はまた「最短距離」の一部になる。
それでも、
足の裏に残る路地の凹凸の感覚だけが、
しばらく消えなかった。
家までは、あと数分。
今日は、そうだった。
それだけだ。
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