誰にも会わないまま、独り言を飲み込んだ回
退社の瞬間
「お疲れ様でした」と言ってオフィスを出たのは、
まだ同僚たちが慌ただしくキーボードを叩いている時間だった。
自分の声だけが、乾いたフロアに場違いなほど残った気がして、
エレベーターを待つあいだ、耳の奥が少し熱を持つ。
今日一日、自分は何を話しただろう。
思い返してみても、出てくるのは業務上の、削ぎ落とされた言葉ばかりだ。
主語も感情も、できるだけ消された記号のような発言。
喉の奥に、使い残した言葉が澱(おり)のように溜まっている。
吐き出されなかったそれらが、重さだけを持ってそこにある。
歩き始める
外に出ると、冷たい夜気が頬を叩いた。
人通りの途絶えた路地を曲がった、その瞬間だった。
喉の奥に溜まっていた何かが、
ふいに、口をついて出そうになる。
「……あー」
あるいは、「なんだかな」だったかもしれない。
意味をなさない、誰に向けるでもない、ただの呼気。
けれど、私は唇を開く寸前で、それを飲み込んだ。
誰にも会わない帰り道で独り言を言うことが、
寂しいからではない。
その言葉を外に出した瞬間、
今日という一日が、決定的に安っぽくなる気がしたのだ。
考えが勝手に浮かぶ
もし今、ここで声を上げたら、それは誰に届くのだろう。
夜空か。
並木か。
それとも、自分自身か。
結局、言葉にしたところで、何も変わらない。
不満でもないし、叫びたいほどの情熱でもない。
ただ、
「今、ここにいる」
それだけの感覚。
それを言葉という形に押し込めるのは、
ひどく無駄な抵抗のように思えた。
私はもう一度、深く息を吸い込み、
言葉にならないものを、胃の底へ沈める。
声に出されなかった言葉たちは、
静かに熱を失い、
いつの間にか、血肉の一部に変わっていく。
答えを出さずに終わる
駅の改札を抜け、
ホームに滑り込んできた電車の風を浴びる。
私の口は、最後まで固く閉ざされたままだ。
結局、家に着くまで、誰とも話すことはないだろう。
それは、とても静かで、
ひどく清潔な時間のように思えた。
誰にも会わず、
何も語らないまま、今日が終わっていく。
それでいいのかどうかは、まだ考えない。
今日は、そうだった。
それだけだ。
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