電車に乗る前、立ち止まる癖がついた
退社の瞬間
フロアの消灯が始まり、隅の方から闇がにじむように広がっていく。
自分のデスクだけが、島のように白く浮かんでいた。
ぬるくなった茶を最後の一口で飲み干し、マウスを置く。
鞄を肩にかけ、出口へ向かう。
背後で自動ドアが閉まる音を聞きながら、
「早く帰らなければ」という強迫観念が、
少しずつ薄れていることに気づいた。
歩き始める
駅前のロータリーは、家路を急ぐ人の波で満ちている。
以前の私なら、その流れに身を任せ、
最短距離で改札へ滑り込んでいた。
だが最近、地下へ続く階段の手前で、
ふと足を止めるようになった。
銀色の手すりの横。
人混みからわずかに外れた、使われていない空間。
そこが、いつの間にか
誰にも邪魔されない「定位置」になっていた。
考えが勝手に浮かぶ
電車のドアが開けば、
そこからはもう「帰宅」という次の役割が始まる。
だから、その手前で立ち止まる。
流れていく街の灯り。
誰かの笑い声。
遠くで鳴るクラクション。
それらを、意味づけしないまま視界に通す。
かつては、帰り道を
ただの「無駄な時間」だと思っていた。
けれど今は、この何もしない時間こそが、
削られた自分を戻すための
唯一の避難場所のように感じられる。
階段を降りる一歩を遅らせるだけで、
世界との距離が、ほんの少し保たれる。
答えを出さずに終わる
五分か、十分か。
もう時計は見ない。
冷えたガードレールに指先で触れ、
呼吸が落ち着くのを待つ。
急いで帰ったところで、
待っているのは冷えた部屋と、
明日のための準備だけだ。
ならば、
この「どこでもない場所」に立っている時間は、
今の私にとって
いちばん贅沢なのかもしれない。
十分に冷えた空気を肺に入れ、
私はゆっくり階段へ足を向けた。
自動改札が、無機質に私の帰還を告げる。
今日は、そうだった。
それでいい。
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