
はじまり
朝、カーテンの隙間から、やわらかい光が差し込んでいた。
白いレースの向こうで、空が少しずつ明るくなっていく。
その光は、街のざわめきより先に、部屋の空気をやさしく温めていくようだった。
以前なら、そんな光さえまぶしくて、
布団の中で顔を隠していたと思う。
朝が来ることが、ただ恐ろしく、
その光が「今日も始まってしまった」という宣告に見えた日々が、確かにあった。
でも今日は違った。
目を細めながらも、その光を見ていた。
眠気も、疲れも、心の奥にある小さな不安も、
決して消えたわけじゃない。
けれど、光の粒がカーテンの模様に散って、
壁に淡い影を描くのをぼんやり眺めていたら、
胸の奥にほんの少し、温度の違うものが灯った。
「もう少しだけ生きてみようかな」
根拠のない言葉だった。
でも、その“根拠のなさ”こそが、
自分を動かす小さな力になる気がした。
ほんの一瞬、そう思えた。
その一瞬があっただけで、
朝の空気は昨日より少しだけ柔らかく、
自分の心も昨日より少しだけ軽く感じられた。
小さな変化に気づく朝
ここ最近、心の中の“重さ”が少しずつ変わってきた。
以前は、真っ黒で動かない岩のように固まっていたのに、
今はゆっくりと溶け出し、水になって流れ始めている感じがする。
不思議なことに、特別なきっかけがあったわけじゃない。
誰かに救われたわけでも、
仕事が急に楽しくなったわけでもない。
相変わらず職場では気をつかい、
帰ってくればひとりきりの部屋。
生活の形は、何ひとつ変わっていない。
けれど、心の奥で何かが少しだけ動いた気がする。
ある朝ふと、「もう無理をしない」と呟いてみた。
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥にあった見えない鎖がひとつ外れたような気がした。
それから少しずつ、自分の心の声が聞こえるようになった。
「今日は行きたくないな」
「でも、まあ、行けるかも」
そんなつぶやきが、前よりも柔らかく耳に届くようになった。
以前のぼくは、その声をすぐに打ち消していた。
「甘えるな」「みんな頑張ってる」と。
そう言い聞かせながら、
自分の中の“弱さ”を踏みつけて前に進んできた。
でも今は、その弱さに椅子を用意できるようになった。
「それでもいいよ」
「今日は休みたい自分がいるんだね」
そう言葉をかけてやると、
不思議と心の中の音が静まる。
誰かに許されなくても、自分で自分を許せたら、
朝の重さは、ほんの少しだけ違って感じられる。
外の空気が冷たくても、
その冷たさの中に“生きている実感”が混じっているのがわかる。
そんな小さな変化に気づけるようになっただけでも、
この数年のぼくにとっては、
大きな進歩なのかもしれない。
変わったのは、世界じゃなく、自分の目線だった
昔のぼくは、
「頑張らなきゃ」「もっと強くならなきゃ」
と自分を叩きながら生きていた。
誰かに褒められるわけでもないのに、
「ちゃんとしていないと、この世界に居場所がない」
そんな思いに追い立てられるように、
毎日をこなしていた。
失敗すれば「自分が悪い」と責め、
落ち込めば「甘えている」と突き放す。
気づけば、心の中にいつも“監視者のような自分”がいた。
その声が静まる瞬間なんて、一度もなかった。
でも今は違う。
弱いままでもいいと思える。
落ち込む日も、何もしたくない朝も、
そのままの自分でいていい。
泣いてもいいし、立ち直れなくてもいい。
誰かに迷惑をかけなければ、それで十分だ。
むしろ、完璧を装っていた頃より、
今の方が人間らしい気がする。
「立ち直る」という言葉を、
ぼくは昔、何か劇的な出来事のように思っていた。
けれど今は分かる。
それは、奇跡なんかじゃない。
ただ、“立ち止まっても大丈夫”と
自分に言えるようになること。
それだけで、世界の見え方が変わる。
最近は、空の色や風の匂いに少しだけ敏感になった。
通勤途中の街路樹の葉が揺れる音、
カラスの鳴き声、遠くで聞こえる子どもの笑い声。
以前なら聞き流していたそれらが、
今はなぜか、胸の奥に静かに沁みてくる。
何も変わっていないようで、
きっと一番変わったのは自分なんだと思う。
世界の方が優しくなったわけじゃない。
ただ、自分の目線が少しだけ柔らかくなった。
通勤途中の空が、少しきれいだった
クロスバイクにまたがり、そっとペダルを踏み出す。
タイヤがアスファルトを擦る音が、まだ静まりきらない街に溶けていく。
冷たい朝の空気が頬をかすめ、指先の感覚がじんと目を覚ます。
息を吸い込むたび、冬の名残と春の気配が交じり合ったような匂いがした。
その一瞬に、「ああ、季節がまた動いてる」と思った。
ふと見上げると、街の上空が淡いオレンジに染まっていた。
ビルの屋上に光があたり、窓ガラスのひとつひとつがゆっくりと輝き始める。
電線の影が道路に細く伸び、通勤バスのライトがその上を滑るように通り過ぎていった。
コンビニの看板、遠くのバス停、パン屋の小さなのぼり旗。
どれも昨日と同じはずなのに、なぜか少し違って見えた。
あの日と同じ街。
同じ時間。
でも、ほんの少しだけ違う。
昔のぼくは、景色なんて目に入らなかった。
ただ俯いて、会社へ急ぐだけだった。
「どうせ今日も同じ一日」と決めつけ、
世界を閉じていたのは、実は自分の方だったのかもしれない。
けれど今は、息を吸って吐くだけで「まだ生きてる」と思える。
空気の冷たさ、遠くの車の音、
朝刊を配るバイクのエンジン音、信号機の切り替わる電子音。
それらすべてが、“まだ世界とつながっている”ことを確かに伝えてくる。
パン屋のシャッターが開く音、
カップを並べる喫茶店のガラス越しの音、
誰かの「おはよう」の声。
その何気ない音たちが、
ぼくの中に小さな灯りをともしてくれる。
気づけば、頬を刺す風が少しだけやさしく感じた。
手袋の中で指先をぎゅっと握りしめると、
体の奥に“まだ自分はここにいる”という確かな実感が戻ってきた。
仕事の悩みも、不安も、孤独も、もちろん消えてはいない。
それでも、こうして空を見上げられる自分がいる。
それが、ほんの少しだけ誇らしかった。
誰にも言えなかったこと
孤独、将来の不安、「このままでいいのか」という焦り。
それらは、今でも確かに心の奥にある。ふとした瞬間に波のように押し寄せ、
胸の奥を重くする。
昔のぼくは、その波を必死に押し返していた。考えないように、忘れるように、
仕事や雑事で心を埋め尽くそうとした。
けれど、そうやって押し殺したものは、別の形で何度でも戻ってきた。
夜中に目が覚めると、
心の奥でその重さがじっとこちらを見ていた。
でも今は、もう戦わない。
消そうとも、忘れようとも思わない。逃げても、またどこかで出会うなら、
いっそ隣に座らせておけばいい。その重さに席を用意して、
コーヒーでも飲ませてやるような感覚で。
不安や悲しみを排除するんじゃなく、共に歩く。
その方が、ずっと自然だと今は思える。
嫌いな相手を無理に消そうとするより、「そこにいる」ことを認めてしまう方が、
ずっと楽になる。
「悲しみを抱えたままでも、生きられる」
その言葉の意味を、頭ではなく、
ようやく体で理解できるようになった。
悲しみは敵ではなく、
生きてきた証のひとつなのだと気づいたとき、
ぼくの中の“生きる”という言葉の重さが変わった。
それは軽くなったというより、
やわらかくなった、という感覚に近い。
抱えているものは同じでも、
持ち方を変えれば、心はちゃんと動ける――
そんな小さな確信が、今のぼくを支えている。
人は、誰かに見守られなくても立ち上がれる
ぼくの人生には、劇的な転機なんてなかった。
ドラマのような奇跡も、誰かの救いの手もなかった。
ただ、どうにか明日へと進むために、
小さな一日を重ね続けてきただけだ。
それでいい。
今は、心からそう思える。
人生は、拍手の音で動くものじゃない。
静かに、淡々と、
自分だけの速度で続けていくものなんだと思う。
誰かに認められなくても、
見守ってくれる人がいなくても、
人は立ち上がれる。
朝、布団から起き上がり、顔を洗う。
鏡に映る少し疲れた顔を見つめ、
「まあ、今日も行くか」と小さくつぶやく。
たったそれだけのことなのに、
心の奥で小さな火が灯るのが分かる。
それは、決して派手な光じゃない。
でも、確かに自分の中にある灯りだ。
出勤の準備をして、外の空気を吸う。
冷たい風が頬をなで、
目が少しだけ覚めていく。
その瞬間に、胸の奥でかすかに響く言葉がある。
「今日も、自分を諦めなかった」
たったそれだけでいい。
誰かに褒められるよりも、
その静かな一言の方が、ずっと強い力を持っている。
生きるとは、
他人に見守られることじゃなく、
自分で自分を見つめ続けること。
誰かが拍手してくれなくても、
それでも前に進んでいる――
その事実が、何よりの証だ。
朝焼けが少しだけ優しく見えた
外に出ると、空が淡いオレンジに染まっていた。
ビルの影が長く伸び、道路に光の帯ができている。
車のヘッドライトが消えるたび、街が静かに目を覚ます。
あの日と同じ街。
同じ時間。
でも、少しだけ違って見えた。
あの頃は、景色なんて目に入らなかった。
ただ働くだけの毎日で、
世界は灰色にしか見えなかった。
でも今は、冷たい風の中に、
人の気配や季節の匂いを感じられる。
息を吸って吐くだけで「まだ生きてる」と思える。
パン屋の甘い香り、
コーヒーを淹れる音、
どれも日常のはずなのに、どこか懐かしい。
心のどこかで、「今日という日も悪くない」と思えた。
「ああ、まだ生きてる。
そして、この街のどこかで、
誰かも同じように朝を迎えている。」
それだけで、少し救われる。
今日も変わらない一日が始まるけれど、
その“変わらない”が、今のぼくにはありがたかった。
結び|「生きる」は、もう一度今日を始めること
50代になって思う。
人生は、立ち直るものじゃなく、
少しずつ始め直すものだ。
昨日までの涙も、今日のため息も、
ちゃんと積み重なって、今の自分を作っている。
明日がまた重くてもいい。
その中に、きっと小さな光がある。
そして、その光はいつだって、
ぼくの中にしかないんだ。
☕️ ―おわりに―
この物語は、「闇」と「灯り」を越えた先にある“静かな再生”の記録。
完璧に笑えなくてもいい。
それでも、生きていれば、朝は必ずやってくる。
そして、今日もまた、少しだけ優しい光が差す。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
※この記事の本文は筆者が執筆した実体験・感想をもとにしており、読みやすさ・構成の整理のため、AIによる文章補助を一部使用しています。
内容に関する最終的な責任は筆者にありますが、文脈や表現の一部にAI由来の再構成が含まれる可能性があることをご了承ください。

