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逃げてきた人生を、肯定も否定もできないまま50代になった

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50代おっさんの悩みと小さな出口

逃げてきた人生だったのかどうか。
正直、いまだによく分からない。

「逃げた」と言われれば、否定はできない気もする。
でも「逃げたおかげで助かった」と言い切れるほど、胸を張れるわけでもない。
その中間に、ずっと立ったまま50代になった。

判断を先延ばしにしたまま、時間だけが進んだ。


昔、誰かに言われたことがある。
「結局、逃げたんだろ?」

強い言い方じゃなかった。
むしろ、事実確認みたいな口調だったと思う。

そのとき、言い返せなかった。
怒りも湧かなかったし、反論の言葉も出てこなかった。
「そうかもしれない」と、心のどこかで思っていたからだ。

でも同時に、
「じゃあ、どうすればよかったんだろう」
という問いも、消えずに残った。

あのとき別の選択をしていたら、
胸を張れる今があったのか。
それとも、もっと早く壊れていたのか。

答えは出ていない。


今も、この感覚は続いている。
後悔しているのかと聞かれると、そうでもない。
満足しているかと聞かれると、それも違う。

成功したわけでもない。
失敗談として語れるほど、派手に転んだわけでもない。

ただ、生活は続いている。
朝は来て、夜も来る。
行きたくない日もあるし、
それでも行った日もある。

宙ぶらりんのまま、
なぜか今も生きている。


あの時、
もっとがんばれたら。
あの時、
もっと強く言い返せたら。
あの時、
もっとうまく振る舞えていたら。

そう思い返す場面は、何度もある。

でも結局、
自分は何もできずに、その場から逃げ出した。
その積み重ねの先に、今がある。

それが良かったのか、悪かったのか。
正直なところ、いまだによく分からない。

ただ一つ言えるのは、
少なくとも今の仕事では、
周りからの信頼を得ることはできている、ということだ。

大きな評価ではないし、
誇れる肩書きがあるわけでもない。
それでも、任せてもらえることがある。
頼られる場面が、まだ残っている。

今は、それがすべてだ。


自分の場合、
判断できない気持ちをどうにかしようとは、もうしていない。

「逃げだったのか」「正解だったのか」を
決めようとすると、だいたい疲れる。

だから最近は、
朝、顔を洗う。
それだけはやる。

大きな意味はない。
前向きな儀式でもない。
ただ、水で顔を洗って、タオルで拭く。

それだけで、
今日はここまで来た、と思うことにしている。


たぶん、この人生が何だったのかは、
まだ分からない。

肯定もできないし、
否定もしきれない。

でも今は、
判断を保留したまま、
今日が終わるところまで来た。

それで、いいのかどうかも分からない。
ただ、今日はここまで来た。

▶ 関連記事 → 50代、逃げてばかりの人生だった。でも、生きてきた。

♦同じような感覚を抱いた別の文章があります。
50代になって「逃げてきた」と振り返る中で、
その問いを静かに置いているエッセイです。
外部リンク:note/50代、逃げてばかりの人生だった。それでも、日々は続いている。

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